序章 有機化学の歴史とその領域
序章 有機化学の歴史とその領域
Tuesday, 1 October 2013
いよいよ授業が始まりました。これから1年半かけてこの教科書を勉強して有機化学の基礎を身
につけましょう。有機化学はすべての化学の分野に関わる領域ですから、どんな人もこれからの
キャリアの中で多かれ少なかれ関わることになします。しっかり勉強しましょう。かた、予告通
り、教科書が間に合えば、英語の教科書に切り替えて授業を行っていきます。
化学の歴史は、人類の文明の歴史と重なります。すなわち人類最初の化学的な発明は「発酵」で
す。お酒やビールそれにワインの歴史はいまから約1万年前にまでさかのぼれます。農耕の開始
とほぼ同時に発酵が始まってビール等のアルコール飲料を飲んでいたのは驚きです。
しかし、化学がサイエンスとしての化学になるまでにはそれから途方もない時間が必要になりま
す。中性でもイスラム社会では科学は進歩しましたが、まだ現代の化学のような学問としての体
系はなしていません。中世ヨーロッパでも、アルコールの蒸留が見つけられて、ウイスキーや濃
縮したアルコールの製造法が見つけられますが、錬金術に代表されるように、まだ化学的なこと
については口述伝承の時代でありサイエンスにはなっていませんでした。
化学がサイエンスとして成り立ったのはラボアジェ以来であると言われます。彼はフランス革命
で命を落としますが、燃焼の減少を初めて定量的にとらえ、化学反応の前後で質量は不変である、
ということを精密な実験により証明しました。それまで燃焼すると、燃焼ガス(二酸化炭素や水
蒸気など)が「雲散霧消」するように見えるので、燃焼すると「重さが減る」と信じられてきま
したが、反応の前後で質量が不変であることを示したのは画期的です。これ以降、化学が「サイ
エンスとしての化学」として確立し発展していきます。
有機化学のスタートは、ウエラ?の尿素合成とされていますが、これは現代の有機化学の基準か
らすると、やや不完全な印象を持つかもしれません。彼は「生命体由来のの産物(化合物)は生
命体からしか作れない」とう生気説に対して、尿素(生体由来の産物)が純然たる無生物由来の
化合物から合成できることを示して、生気説を打ち破りました。これをもって、有機化学がスター
トするのですが、有機化学のその元々の意味「Organic(内蔵や器官の意味)」の化学としての
生命体解明への化学として活発になるのはごく最近のことです。
ひとたびその扉が開かれた有機化学は、その後大きな進歩を遂げます。19世紀後半から20世紀前
半に至る進歩は、現代の有機化学の成熟への基礎となりました。構造化学では正四面体構造の提
案(van't HoffやLe Bel)、ベンゼンの構造の提案(Kekule)、もちろん量子力学の進歩も見
逃せませんし、それを基礎としたHueckelの近似によるSchroedinger方程式を解くことよる分
子軌道法の展開も、いまの有機化学になくてはならないものになりました。天然物(天然由来の
化合物)の合成もBaeyerのインディゴ合成は19世紀の一つの大きな成果でしょうが、それがど
んどん複雑な化合物の合成につながり、20世紀後半のビタミンB12やテトロドトキシン、タキソールなどの重要な化合物の合成へと花開きました。もちろんそういった複雑な化合物の合成を支えた新しい反応の開発も見過ごせません。とりわけ遷移金属を触媒として使った反応は従来の有機化学では不可能であった反応を可能にして、有機化学を大きく進歩させました。2010年のノーベル化学賞が鈴木先生や根岸先生(それにRichard Heckも)に与えられましたが、これは彼らのパラジウムを使ったカップリング反応の業績に対してであり、遷移金属を使った新しい反応がいかに威力を発揮したかを示しているものといえましょう。この分野には多くの日本人化学者の貢献があり、日本の有機化学のレベルを世界的なものに押し上げました。現在も日本の有機化学は世界のトップ集団を走っています。
天然のものを作るだけでなく、天然にあるものを少し変化させて、天然にはない全く新しいもの
を作り出すことも有機化学のお家芸です。古くはPerkinの人工染料モーブの合成がそうですが、
最近では抗インフルエンザ薬のタミフルなどの物質がそれに当たります。タミフルは天然にはあ
りませんが、インフルエンザウイルスの代謝機構(平たく言えばウイルスの一生)をつぶさに調
べているうちに、ある化合物のウイルスにとっての重要性がわかってきたので、その化合物をい
ろいろ化学的に変化させてデザインすることでタミフルが作り出されました。タミフルなどの抗
インフルエンザ薬は、人類初の「抗ウイルス薬」として、何百万人いや何千万人の命を救ってき
ました。
こうして作った化合物も、世間に行き渡らなくては役に立ちません。そのためには大量合成が必
要になります。たくさん作るには実験室で作る違った工夫が必要になります。普通に実験室でグ
ラムスケール使っている試薬も、工場のキログラムやトンスケールでは使えなかったり、温度条
件も氷で冷やすのなら工場でもOKですが、ドライアイスで冷やすわけにも行きません。蒸留は実
験室では普通に可能ですが、工場ではエネルギーがすごいことになるのであまりやりたくないで
しょう。こんなことを考えると、大量スケールでどうやって作るか、ということを解決しようと
思えば有機化学の知識を総動員する必要があります。また、最近は毒のあるものを使うのはやめ
よう、とか、廃棄物はへらしましょう、とか、いろんな条件をつけてものづくりをせねばならな
い世の中になりました。グリーン化学と呼ばれるこの分野は、最近起こってきた分野ですが、環
境配慮して物質生産に結びつけよう、というのがその一つの柱です(それだけではありません)。
昔は方法論も限られていましたし、作れ(でき)なければ意味がない、と考えてありとあらゆる
方法を試したものですが、有機化学も成熟し、数ある方法論の中から、より環境を考えての方法
を選択するところから出発することが、新たな行動指針となりつつあります。これもまた有機化
学を21世紀にフィットしたかたちで進歩させるためのベクトルとなることでしょう。
このように、有機化学はこれまでの発展してきましたし、これからも大きな発展がある分野です。何よりも本当の意味での「ものを作れる」サイエンスは「有機化学」だけなのです。有機化学者はそれを誇りに思って研究開発活動続けていますし、皆さんにもこの魅力的な学問を身につけて、21世紀の問題解決に当たれる「ものづくり」を進められるようになっていただきたいと思っています。そのための基礎としての「化学II」の勉強を進めていきましょう。